今朝はかなり怒ってしまった。もちろん彼女に理由があるわけだけど、でも、ささくれのように残る不愉快感が消せない。
ことの流れはこうだった。
7時も過ぎてゆっくり起きてきた姫が着る服がない、お母さんが洗濯をしていないという。
そんなはずないでしょ、と空になってる乾燥機と洗濯物を確認すると、学校に着て行く服がないと怒る。
服はそれなりにある、どうしてこういうことになるのか?と問い詰めると、今日は涼しいから長いズボンが欲しい、それがないという。
そんなはずはないでしょ、と確認すると、ジーンズは全て彼女によって夏の間に半ズボンに作りかえられていた。
確かに長いジーンズは一枚もない。
そこでさすがに私も頭に血が上った。
新学期が始まる前の用意で、ジーンズを買うためにどれほど彼女の買い物に付き合ったことか。
あそこのお店、ここのお店、何時間歩き回っても好きな形が探せない。
これで良いでしょ、という品をみつけても嫌だという。
彼女が少しでも気に入らない服を買うと、あの子は絶対着ない。
それがわかってるから、私も買わない。
その繰り返しだった。
学校に来て行く服、普段に着る服にそんなに一生懸命になってどうする!なぜ買わなかったのだ!と怒ると、嫌だ、あんなの着たくなかったと当たり前のようにいう。私はどんどん怒りが込み上げてきて噴火した。
結局半ズボンを着て、時間がないと朝ごはんも食べずに学校に出かけて行った。
それでも次男坊をおくっていく途中で拾うことができたから、母娘とも少し落ち着いて行ってらっしゃいができた。
お顔がみれてよかった。機嫌が悪いまま学校に行かれると お母さんだってストレスなのよ。っと次男坊にいうと彼も笑う。彼にしてみたら災難だ。朝起きてシャワーを浴びてる外で、急にバトルが始まったのだから。
それにしても気持ちが重い。
自分でもなぜなのだろうと思うと、やっぱり自分の心の中のささくれに引っかかる。
服など選ぶ自由などなかった自分が嫌だったのだ。母の趣味から外れる服を着ることは許されなかった、それに反発する力もなかった自分が嫌だった。こだわりのかたちをもとめて服を探す自由もなかった。
結局はこれなのだ。
子育てって、ほんと嫌だ。
常に自分の心のささくれに向き合わなくてはいけない。
向き合って感じる自分の中に湧いてくる怒りを子どもにぶつけないで、自分に問いかける。その作業のなんと苦しいことか。
母親になってもう直ぐ四半世紀。でも、私はまだもがいてる。この苦しみから解放される時は、きっと一生こないのだろうな。